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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
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  私は酒場を探しながら、頭の中で試合後の控室で吉野が口にした言葉を反芻していた。
「まだ倒すなっていう観客の声は勿論聞こえていたよ。でも俺はハラハラの吉野だからね。試合を演出しようなんて考えたら、ホント、何が起きるかわかんないよ」。
 その夜、川端龍博を初回KOに屠った吉野は、そう言って笑った。5度目の防衛戦で初回に2度ダウンを喫しながら3度のダウンを奪い返し、逆転のKOで勝ったこともあった。そのことを彼は、ハラハラと表現したのだった。
 ともあれ吉野は9ヶ月のブランクを見事に跳ね返して復活した。それは連続12KO勝ちのおまけつきの復活でもあった。

「いい試合だった」。私は祥子に言った。数時間前の吉野を思い返すことは、恐らく祥子の仕掛けた罠にはまりつつある自分を救おうとした私自身の、切羽詰まった策だった。「とにかく入りましょうよ」。祥子が私の言葉を無視するように言った。向かい合わせに席に着いた私達に、熱燗が運ばれてきた。全国チェーン店でもあるその店は、深夜にも拘らず多くの客でごった返していた。「丁度いいわ。これなら私達の声も周りに聞こえないから」。上目使いで私を見つめる祥子を隣席の3人の学生風の、品定めをする声が聞こえてくる。その声を楽しむような風情で祥子が言った。「本題に入るわ」

 祥子がロスのジムに通うようになって1ケ月ほど経った頃、彼女はアンという20代後半の女性と親しくなった。ある日アンは、ジムのシャワーを一緒に浴びながら、祥子の体をつぶさに眺めていた。「私はあなたが辿ってきた歴史を知りたいわ」。笑みを称えながらのアンのハスキーな声は魅力的だった。「あなたの肉体には思想が感じられるから」。そう続けたアンに好意を抱いた祥子は、おおまかに自分の過去を語った。アンは「カリフォルニア州ライト級チャンピオン」を自認していた。「私が借りているアパートには、私が大切にしているボクサーが3人いるの。私達は共同生活をしながらボクサーとしての自分を高めあっているのよ」、とアンは言う。
「興味深いわ」と答えた祥子を、アンは当然のようにアパートに誘った。だがそのアパートには、祥子が想像していたような肉体を鍛える器具はほとんど置かれてはいなかった。

「ここはね、私達が自分を解放する場でもあるの」。アンの意味ありげな笑みに、祥子はそのパートでどんな目的で共同生活を営んでいるかを悟った。
 祥子が私に言った。「でも、驚かなかった。むしろ私はその運命的な出会いを望んでいたのかもしれない。だから私はアンに進んで尋ねたの。あなた達の日常を詳しく教えてくれって…」。

「あなたはさっき、男に受けた屈辱を語ってくれたでしょう? でも私達は屈辱を拒否することで人生を成立させているの。私達が、男が作り上げた男だけに都合のいい社会を拒絶すれば、女性は解放される…。そのためにはまず、男とのセックスを拒絶しなければならない…」。アンが祥子に語った理屈から発するものは、レスビアンである。しかし、喉元までその言葉が出かかった時、祥子が言葉を継いだ。「あなたは、それは単なる同性愛と言いたいのでしょう? でも違うの。男を締め出してもヴァギナと言う忌まわしい存在を締め出さなくては、意味がない。それがアンの主張なの」。私は混乱した。そんな私を楽しむように祥子が言った。

「レスビアン・フェミニズムって聞いたことある?」。首を横に振る私に、祥子は待ってましたとばかりアンを含めた「レスビアン・フェミニスト」について語り始めた。
 本来、セックスいうものは女にとって差別的意識を持った男に快楽を提供するだけの屈辱的な行為に過ぎない。したがって、女が人間であるための性行為は出産にも使われない純粋そのものの性器であるクリトリスだけを使用して行われるべきであり、そうすることによって、女性はこの性差別に満ちあふれた男社会から開放されるのだ。――かいつまんでいえばそれが、祥子がアンを通じて学んだ主張であり思想だった。

「そういう2年間を送ってやっと私は忌まわしい月日を消すことが出来たんです」。
「そうして湿疹も消えたのか」。
 祥子が黙って頷いた。寂しい話だった。
「出産も拒否することは、女であることも拒否するわけだ。それでもアンや君は快楽を求めることはやめない、というわけだ」。
「その考え方が性差別そのものなのよ。私は言ったはずよ。肉体の快楽の前に、自分を解放することが重要なの。あなたはわかろうとしないじゃない。わかることが怖いのでしょう?」。
 これ以上話し合っても、堂々巡りになるだけだった。私は高井から受けた屈辱によってこうまで自己変革を余儀なくされた祥子のことを改めて考えた。やがて閉店の時間を告げられた私達は外に出た、店に入る時に降りかけていた雪が路上に駐車した車を包み込んでいた。

 少し待ってから通りかかったタクシーを止めた。「じゃあ」。別れを告げる私の言葉に、祥子は答えなかった。「早く乗りなさい」とせかす私に、祥子が言った。「私もうアンに会えないの。本当はアンに追い出されたの」。沈黙している私に、祥子が囁いた。「私、お腹の中に子供がいるんです」。私はそれ以上祥子の言葉に拘りあわなかった。「どうするの。乗らないのなら行くよ」。タクシー運転手の声に手を振った私に祥子が追いすがってきた。
「今日だけでも、一緒にいて。それが嫌なら・・」と祥子が雪夜の中でもはっきり聞こえる声で言った。「あなたのお母さんに、あなたの子だっていうわ」。私は祥子の頬を、黙って打った。祥子は表情ひとつ変えずに私を見上げていた。また打った。右手の甲でさらに打った。祥子の顔に笑みが浮かんだようだった。その笑みが、私の残酷な気持ちに火をつけた。気がついた時には、祥子の唇から鮮血が流れ落ちていた。何度も打たれながら、声も上げずに叩かれるままになっていた祥子に覚えたのは、苛烈なほどの美しさだった。そして私は、彼女を狂おしいほど愛しいと思った。その自分の感覚に、私は震撼した。

 祥子から離れると雪の中をひたすら歩いた。夜が白けてくるまで、ただ歩いた。そして朦朧とした意識の中で、私は初めて自分が落ち込んだ陥穽の深さを知った。


丸山幸一の
『祥子(さちこ)
~ある女拳闘家の記録~』

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丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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