All About the Sport                                                   専門情報サイト「ボクシング・ジーン」
Boxing-Zine

Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
                           11
 それから1週間が過ぎた。私は大学時代の友人の家で、一枚の複製画を肴に飲んでいた。それはV・ベローフによって描かれたドストエフスキーの肖像画だった。椅子に座ったドストエフスキーが両手で膝を抱えながら、じっと何かを見つめている絵である。

「エルミタージュ美術館だったか。小林秀雄がこの絵の前で全く動けなくなったという理由が分かる気がするな」。私が言った。その絵画に出合った瞬間、国内随一のドストエフスキーの解釈者は、金縛りに遭ったように、身動きが取れなくなってしまったのだった。「小林秀雄を金縛りにしたドストエフスキーの目は一体、何を捕らえていたのだろう」。強か酔った私はさらに友人に問いかけた。

「さあ、俺なんかに分かるものか」友人は深いため息をつくと言った。「ドストエフスキーがこの世に送った知性。イワン・カラマーゾフ、キリーロフ、スタブローギン・・。ドストエフスキーの眼差しは、そんな奴らが陥った深い虚無の、さらに奥の奥にあるものを見ていたはずだ」。しかし、この大学で教鞭を取っている友人は、ややあると私の目を見ながら「いや、きっと何も見ていないんだろうよ」、そう言い換えてハハ、と力なく笑った。それは、高校時代からドストエフスキーに魅了されながら四半世紀が過ぎた今、ドストエフスキーに打ちのめされてしまった男の、自分に対する絶望の笑いに違いなかった。

「今日は泊まっていくのだろう?」という友人の問いに頷く私に、「じゃあオフクロさんに電話して置けよ」と声を掛けてきた。私が母親と二人暮らしで、その母親が大腸がんの手術をしてからあまり日が立っていなかったことを知っていた友人の配慮だった。その言葉に応じた私が掛けた自宅の電話口から、突然「今、困っているのよ」という、緊張した母の声が飛び出してきた。

 小声で母が続けた。「祥子さんて方が、さっきからウチに来ていてね・・」。
 
 母の話を纏めるとこうだった。夕方、祥子が突然、私を訪ねてきた。母が私の不在を告げると、「じゃあ、待ってます」と答え、そのまま家に上がり込んだ。しかも、彼女のいでたちが尋常ではなかった。
旅行用のカバンを左手に持ち、右手には、長ネギがはみ出た大きな買い物袋を抱えていた。母が祥子にその買い物袋のことを尋ねると、「丸谷さんもお母様も、お肉がお好きと聞いていましたので、すき焼きにしようと思いまして」と笑みを浮かべて言ったという。

「祥子さんが、こっちに見えたから代わるわ」。母から受話器を受け取った祥子は、何の抑揚もなく言った。「何時ごろ、お帰りになれるのですか?」。祥子には、自分が突飛な行動をしている感覚は何もないようだった。「君は一体、僕の家で何をしているんだ」。詰問口調の私に、祥子が沈黙で答える。

「とにかく、帰る」。そう言って電話を切った私に友人がからかい口調で言った。「何か、穏やかじゃ、ないようだな」。私はことの次第を友人に話した。友人が笑いながら言った。「お前は(ドストエフスキーの作品『白痴』の主人公の)ムイシュキン公爵にはなれないものな」。ムイシュキン公爵は、他人の不幸を自分のことのように取り込み、その果てに苦悩するような男だった。そしてこの物語の登場人物達は彼を「白痴」と呼んだ。友人の言葉は何を意味していたのか。しかし私は返答をせずに、友人の家を辞した。


丸山幸一の
『祥子(さちこ)
~ある女拳闘家の記録~』

第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回
丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回
第10回
第11回