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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
 郁子が渋谷のレストランのウエイトレスをして得られる1カ月の収入は2万円少々だった。
 当時、私達が住んでいるようなアパートを借りて、人間一人が何とか暮らせる金額は3万円ほどだった。私が共同生活を提案したのを潮に、郁子は大学に休学届けを出していたが、私は秋の学期が始まると、ほぼ1日置に授業に出ていた。授業に出ない日は東京都の衛生局から委託された業者の元で「糞尿さらい」の仕事をしていた。まだ都内に下水が完備されていない時代である。バキュームカーに3人で乗り込み、主に商店街の浄化槽の「汲み取り」を行うのだ。

 100人槽、200人槽、といった浄化槽の鉄の蓋を開け、まずアルバイトの私が下りて行く。1ケ月も放って置かれ、干からびてカチカチになっている糞尿にバキュームのホースでたっぷりと水道の水を注ぎ、長い木の棒で根気よく掻き回し、柔らかくなった時点で、バキュームで一気に汲み上げる。その仕事が一日、2300円で週3日働いても3万円弱になる。郁子のバイト代と合わせると、二人で暮らすにも十分な金額になったが、私にはもう一つの稼ぎ場があった。それが雀荘だった。

 初めのカモは大学のクラスメイトだった。高校時代に手を染めていた麻雀を、大学の友人達に教えまくり、その彼らと卓を囲むのだからまず負けない。やがて彼らに敬遠され出した私が辿り着いた先が、下手の横好きの商店主達が集まる駅前の雀荘だった。フリー客用の一般的レートは千点50円で、5百円、3百円のウマがつく。私は郁子が遅番の時には必ず駆けつけた。当初は私の雀荘通いに苦情を言っていた郁子だったが、収支決算が月、1、2万円のプラスとなると、自分が遅番の日に限る条件で認めてくれていたのだ。

 けれども、やがてその雀荘は私の逃げ場所になっていった。篠田が「ここに住む」と宣言してからは毎日のように南風荘という店に通った。帰りは郁子よりも遅くなった。それでも彼女は私のために夕食を作っておく。夕食は小さな卓袱台の上に置かれていた。

 そんな私をまるでじらすように、篠田はやってこなかった。しかし、私の中には、ある疑念が芽生え始めていた。篠田が、郁子とどこかで二人して会っているのではないか、という疑いだ。勿論、根拠があるわけではない。にもかかわらず、私は激しい嫉妬に苦しんだ。同時に、その自分に不思議な快感も覚えていた。まるで、キリキリと痛む虫歯に覚えるような快感を・・。



 
つづく


丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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