Boxing Novelette ボクシング短編小説
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遺書は「自分はその夏の日を境に、悪魔に魂を鷲づかみにされた」と書かれていた。「そうして自分がカインの末裔であることを改めて認識した」と続けていた。
篠田は同時にかねてから希望していた、プロボクサーになることを自分に誓っている。
「ボクサーになるために僕に要求されるのは、自分の中にある慈悲の心を殺し、自分の奥底に眠っている残酷な心を引き出すことだった。それが悪魔に心を掴まれた僕がやるべき第一の行為だった」
篠田は「その夜、自分が愛用していたナイフで愛犬の首を裂き、殺した」と淡々とした筆致で書いていた。
「こうして僕は、これまで自分の心の奥底に隠れていた欲望に殉じた。『自分の欲望に忠実であれ』と命じた悪魔の言葉は僕の中で成就した。儀式が終わり、同時に僕はエデンの園を追われようとも、こざかしいアベルを抹殺し、自在に生きたカインになったのだ。そして僕の額には印がつけられた」
何故、ボクサーになるために自分の中に眠っていた残酷さを引き出さねばならないのか。そのために何故、愛犬を殺害しなくてはならないのか。その理由が私には全くわからなかった。
ただ、私が見たプロボクサー・篠田は相手を滅多打ちにすることを愉しむようなボクサーではなかった。KOした相手のコーナーを訪れ、敗者を労わる男だった。
郁子を失ったのも、その源は私の精神の稚拙さだった。私は郁子の前で知的で鷹揚でタフな男を演じた。それはあくまで私自身が作りだした虚像である。実際の私は傷つきやすくて嫉妬深い小心な人間だった。その私に、ものの見方を教えてくれたのが篠田だった。
私は篠田に郁子を奪われたのではなかった。虚勢を張り続けた私が、自分が演じた役割に疲れ果て、勝手に郁子の手を放したのだ。
夕刻、汽車はやっとH市に着いた。私は駅前に宿を取ると、タクシーで篠田家を訪ねた。通夜の席に座りながら郁子を探したが、見当たらなかった。翌朝の葬儀にも、彼女の姿はなかった。
葬儀が行われた翌日、私は再び篠田家を訪問した。篠田と5つ違いの実兄の啓輔さんから、篠田という人間の実像を聞きたかったからだ。
「弟は兄弟の中でも私と特に親しくてね」。広大な果樹園を経営する篠田家の次男は、そう言って私に笑顔を向けた。私は自分宛に送られてきた遺書をその兄に渡した。彼が読み終えてから長い時間が経った。
「どういうつもりで、こんなものをあんたに送ったのか私には見当もつきません」
啓輔さんは大きなため息と共に、言葉を吐き出した。
「私は弟のように頭もよくないし、本も読んでいない。だから分からないところばかりだが、しかし、ここに書かれていることは、事実と違うことばかりだ。“崩壊”というのは、多分、弟が罹った死に病のことを言っているのでしょうが・・」。死に病?私は耳を疑い、大きな声を発した。
「あんた知らんかったのですか?」。私の驚き様に、逆にびっくりした啓輔さんが私の顔をまじまじと覗いた。そのやり取りを機に、色々尋ねた私が知ったのは、考えてもいなかった篠田の実像であった。 |
つづく |
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