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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
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 高円寺駅近くの、筋トレ機器に囲まれた祥子の部屋で彼女が語った話は、何とも痛ましい内容だった。
「Aジムに入門した当初は、あたしはとても満ち足りた数ヶ月を過ごしていたんです。サンドバッグを叩いたときに流れる汗の爽やかさ……ミット打ちは最初はとてもきつかったけど、あたしにとってそれは夢にまで見た、ボクシングをしている、という充実感に変わっていったんです。でもその頃は、それだけで満足で、ボクサーになろうなんて考えもしなかった。そのあたしの考えを変えたのが、あの高井との出会いだったんです」

 高井は私も取材したことのあるプロだった。「それで?」と言葉を挟んだ私の目を見据えながら、祥子が続けた。
「高井の練習時間は、あたしとかちあうことが多かったので、彼のスパーもよく見ていたんです。長身から繰り出す左ジャブは、ちょっと変則だったけど、自分のパンチを出した後、“おかしいなあ”と首を傾げる仕草や、担当のトレーナーに“お前は打たれ弱いんだから、もっと左のガードを上げろ”と叱責される度にむくれる様子に、あたしが好感を持ったのは確かでした。だから高井から練習中に“終ったら食事しない?”と誘われたとき思わず、頷いてしまったんです」。

 ミッション系の女子高出身で、それまでボーイフレンドもいなかったという祥子にとって、それは初めてのデートだった。何度か高井との逢瀬を楽しむうちに、やがて祥子の感情は、強い恋情に変わっていった。
「あたしの学校には、シスターもいて、キリスト教史を教えていたシスターには、よく男との恋愛の空しさを吹き込まれました。本当の愛なんて、恋愛の中にはない。イエスへの愛以外にない。……それが彼女にとって心の底からの言葉だったのか、それとも40をとっくに過ぎていても、恐らく恋ひとつしてこなかったシスターの自分の人生への憎しみだったのか。それはわかりません。でもあたし達は笑っていたわ。あんな風になりたくないって。あたし達はみんな恋に憧れていたし、親しい仲間が集まると、必ず、架空の恋の話をしたんです」
 そう語る祥子の表情は、まだ極めて穏やかなものだった。


丸山幸一の
『祥子(さちこ)
~ある女拳闘家の記録~』

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丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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