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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
                           13
 それから2年の歳月が流れた。
 年が改まってから2週間が過ぎていた。その日は寒風が吹き荒れた一日だったが、私は浮き浮きする気分で、夕暮れの中を後楽園ホールへと急いでいた。その日、つまり平成3年の1月14日は、左拳の手術のために、ブランクを余儀なくされていた、日本ウエルター級王者・吉野弘幸が9ヶ月ぶりにリングに復帰する日だったからだ。吉野を初めて取材してから4年半の歳月が経っていた。その年月の間に、彼は日本タイトルを獲得し、さらに7度の防衛戦をいずれもKOでクリアしていた。

 吉野は熱い心の男だった。昭和60年2月28日。佐々木英信相手のデビュー戦は初回KO負けだった。9ヵ月後の第2戦も相手はまた佐々木だった。そして今度は2回にリングに散った。同じ相手に2度続けてKOされた18歳は、しかし、その汚辱にまみれた夜が明けると、すぐさま、ジムワークを開始するのである。
 復帰戦の直前に取材に赴いた私は、ひとしきり、デビューの頃の話に花を咲かせた。帰り際に吉野が言った。
「1月14日を俺が世界に向かって飛躍する日にする。だから、俺が川端龍博を叩きのめすシーンをきっちり見ておいてよ」

 後楽園ホールに着くと、6回戦の試合が始まるところだった。私は記者席に向かわずに薄暗い南側の観客席に空席を見つけて腰を下した。その直後に背後から「お久振りです」と声が掛かった。聞き覚えのある声だった。祥子の声だった。彼女はいきなり言葉を継いだ。「つい最近、日本に帰ってきました。それで吉野さんの試合があることを知って・・。私がすぐにわかりました?」。わかっていたら、よりによってこの席に座るわけがないではないか。その言葉が突き上げてきた時、「私もうすっかりよくなったの」。さらに私の耳元で囁くように「もう発疹も全然出なくなったの」と続けた。「それはよかった」。そう言って振り向いた私が真っ先に見たのは祥子の涙だった。その涙が私の気持ちを緩めた。そして私は思わずこう言ってしまったのだ。「試合が終ったら皆で飲むけど、よかったらいらっしゃい」。

 吉野は私に宣言した通り川端を初回KOに切って捨てて復帰戦を飾った。試合後はボクシング記者界の大御所である芦沢清一さんを囲み、行きつけの居酒屋で終電車までの時間を楽しむのが恒例になっていた。「吉野の復活に乾杯」。その夜、芦沢さんの音頭で一気に煽った生ビールの味は格別だった。そのビールを、席を同じくした5人が飲み干したとき芦沢さんが私に言った。「お前も隅に置けないな」。「違うんです」。弁解口調の私を引き取るように祥子が言った。「私、丸谷さんに振られた女なんです」。その言葉に皆が一様に口元を緩めながら祥子に顔を向けた。

 酒が十分に回った頃、芦沢さんが彼女に尋ねた。「で、祥子さんはなんで丸谷に振られたの」。慌てて芦沢さんの言葉を遮ろうとしている私に祥子が言った。「この人は私の体が嫌いなんですって」。「おい、勘弁してくれよ!」。顔をくしゃくしゃにする芦沢さんを制するように祥子が言葉を継いだ。「この人は私が男のように体を鍛えているのが嫌だっていうの」。私はいつか「この人」になり、祥子の口調は今までとは打って変わってぞんざいなものになっていた。「でも何故、君は男のように体を鍛えたの?」。それまで様子を窺うように沈黙していたスポーツ・ライターが聞いた。「私、実は女拳闘家なんです」。祥子が昂然とした面持ちでそう答えた。

 それから堰を切ったように祥子が自分のことを語り始めたのである。その話を聞いて私は唖然とした。祥子は高井に陵辱され、それを契機に女性ボクサーになることを決意したはずだった。しかし彼女が語った話は、高井と私を乱暴にすりかえていた。「私は丸谷さんの家に言って料理も作りました。それをお母様もおいしいと言ってくれて・・。でもこの人は翌日私を無理やり追い返したんです。その悲しみを忘れるために私はロスへと修行の旅に出たのです」。余りにも幼稚なすり替えだった。「それは二人の間のことだからな」。すっかり白けた酒席を取り成した芦沢さんの言葉を潮に、我々は散会した。

 私はそのままでは帰れなかった。外は日中の寒さがさらに厳しくなっていた。「あら雪だわ」。自分の頬を抑えながら祥子が芝居気たっぷりに言った。「あんな嘘っぱちを並べた理由を聞かせてくれ」。詰問する私に祥子がゆっくりと言葉を添えた。「嘘だと思ったら無視すればいいじゃない」。そこで言葉を切った祥子はしばらく間を置くと笑いながら言った。「さっき私、もう発疹も出なくなったと話したでしょう?何故治ったのか聞きたくない?」。私は沈黙しながらまだ開いている酒場を目指した。その背後から祥子が心もとない歩調でついてきた。その様子を見ながら私はまた祥子の罠にはまっていく自分を微かに感じていた。


丸山幸一の
『祥子(さちこ)
~ある女拳闘家の記録~』

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丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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