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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説

 当時の大学生の多くが革命の夢を見ていた。
「左翼でなければ、人間にあらず」。そんな空気が学内に流れ、毎日、都内のどこかで大学改革を訴える無届けデモと機動隊がぶつかり合っては怪我人の山を築いていた。
 日本の学生にとって1960年が日米安全保障条約阻止の闘争なら、70年にかけての闘争は安保阻止の名を借りた左翼闘争だった。加えて泥沼化の一途を辿り始めたベトナム戦争が世界中に反戦の機運を高め、その反戦運動を通じて醸し出すエネルギーが彼らに世界革命の幻想を見させていた。

「俺にとって、マルクス・レーニン主義の信奉者はあくまで敵だ。マルクスが意識的に行ったのは、人間が10人いれば10通りの歴史がある、という事実の排除だ。・・人種差別も貧富の差も、或いは凶悪な犯罪も、資本家と労働者の階級格差を解消することでなくすことができる、と信じたのがマルクスだった。人間の不幸の全てにして、唯一の原因が、マルクスにとっては階級的格差に立脚していた。共産主義の最終理念である富の完全分配を実現することで、資本主義の矛盾の産物である悪は消滅する。簡単に言えば、それがマルクスの思想にして哲学なんだ」――篠田から、何度、マルクスに対する反感感情を聞いただろうか。当然ながら私は篠田の考え方に共鳴した。

 だが、3人居れば、暑さで蒸しかえる4畳半の部屋で語った篠田の言葉に私は自分の耳を疑った。

「とりあえず、俺は今の日本を壊したい。そこから何が生じるのか。それは分からない。しかし、破壊からしか”何か“は生まれない。俺はそのために闘うことにした」。

 篠田の野太い声が、明かりを消した部屋の私と郁子を襲った。篠田が、この部屋を最初に訪れてきてから、1カ月ほど経った日のことだった。

「篠田さんの印は・・」。私は初めて彼と酒を酌み交わした際に「自分にはデミアンと同じ印がある」と語った、その印を口にした。

「その印が何なのか、僕には分からないけど、篠田さんを、アナーキズムに駆り立てたのが、その印なんですか?」

「多分」。そう答えると、夏の最中でも放さなかった黒いコートを羽織って横になっていた篠田は、静かな寝息を立て始めるのだ。

 その1週間後だった。私達のアパートを訪ねてきた篠田が、私に言った。

「今日から俺もここに住む」

 しかし、篠田は翌朝出ていったきり、何日経っても姿を見せなかった。それでも私は不安に怯えた。その不安は何だったのか。自分という人間が、篠田と比べてどれほど、劣っているか。ボクシングは論を待たず、知性も行動力も胆力も篠田に明らかに劣っている自分を、郁子に見破られることへの不安なのか。或いは「日本を壊す」と突然、宣言したことへの不気味さなのか。それとも・・。

 篠田が私達の前に姿を現してから、私は郁子が、いつかは激しく篠田に惹かれていくに違いない、という確信に近い感情を抱くようになっていた。自分で認めたくなくても、それが私の最大の不安だった。

「篠田さん、来ないね」。郁子が唐突に言い出したのは10月も半ばになった頃だった。反射的に私は言った。

「そんなに来て欲しいのか?」。次の瞬間、私は予期していた郁子の眼差しに出会った。それは、明らかに私を蔑んだ眼差しだった。

 少なくとも、篠田が我々の前に現れるまで、二人の間には優しい気持ちの交流があった。その感情は篠田の出現と共に、潮が引くように萎えていった。いや、そう感じたのは私だけだったのかも知れない。・・押し黙っている郁子をよそに、部屋を出た。私の行く先は駅前の雀荘だった。  
つづく


丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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