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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説

  篠田の兄が語ったことは、私宛に送られてきた遺書とは違うことばかりだった。

「ゴローの首をナイフで切り裂いた。・・何で、こんな嘘を書かなくてはならなかったのか」

 広大な庭に植えられた広葉樹は既に、葉を落していた。すっかり寂しくなった林を見やりながら啓輔さんがつぶやくように言った。

「ウチの者は、皆、ゴローがどうして死んだのか知っているのですよ。・・ゴローを散歩に連れていくのは弟の役目でした。ここらはほとんど車も通りませんから、いつも鎖もつけずに散歩させていたんです。あの日は弟が目を離した隙にゴローは一目散に道路に向かって走って行って・・。そこへ運悪くトラックが疾走してきて撥ねられてしまったのです。トラックの運転手は私も知っている隣町の男で、撥ねたゴローを運んできて、事情を話してくれました。すぐに獣医を呼びにやったのですが、翌朝、ゴローは息を引き取りました。それが事実なんです」

 兄は大きなため息をついて、自分の感情を整えると、再び口を開いた。

「ゴローを寝ずに看病した弟がどれほど悲しんだか。その悲しみは私達の比ではなかったと思います。本当に気持ちの優しい子だったし、誰よりもあの犬を愛していましたからね。だから、自分が殺してしまったような思いに捉われたんでしょう。今、考えると、この遺書にある『犬をナイフで切り殺した』という個所は、その時の自分の心の表現だったのではないか、と私には思われるのです」


 それから2時間近く話を聞いた私は、ようやく篠田家を後にした。上野行きの特急に乗り、汽車がH駅を発車すると同時に私が覚えたのは、深い疲労だった。篠田の死を新聞で知った翌日に彼の遺書が私の元に届いた。日が改まってから篠田の生家へと向かい、それから3日が経っていた。私は、篠田が中空に垣間見たという悪魔のことを思った。

 篠田が空の彼方に見た悪魔の顔。それは、まるで死の中に自ら飛び込むようにトラック目がけて疾走していった犬を、茫然と眺める以外になす術もなかった篠田の心の痛みが生んだ幻影だったに違いない。

私は汽車の窓から、東北の空を見上げてみた。しかし、私が見たのは抜けるような青空だった。やがて睡魔に襲われた私は、しばしの間、まどろんだ。そして夢を見た。夢の中に篠田がいた。篠田が笑いながら言った。

「ゴローの死。それこそ、俺の願いだったんだ。お前だって、愛する者の死を願うことがあるはずだ。それは誰でも抱く願望でもあるからだ」。やがて、その篠田の顔が崩れ始め、次に現れたのは郁子のらい病患者のようにただれた顔だった。悪魔の顔だ。思わず私は夢の中で叫んでいた。

そして私は恐怖と共に目覚めた。慌てて、もう一度、窓から空を見上げた。そこには、闇が近づいた巨大な虚空があるだけだった。

私は篠田の兄の言葉を再び、思い起こしていた。

「ゴローの死後、弟が変わっていったのは事実でした」と啓輔さんは言った。篠田の変化とは何だったのか。そう考えた時、篠田の遺書の文句が頭を過ぎった。

「ゴローを殺すことで、僕は自分が本来抱えている根深い罪を自覚した。そうして僕は夢から目覚め、人間になった。以来、僕は神と悪魔の間で漂う存在になった。」

この不可解な言葉を反芻した時、私の中に澱のように溜まっていた謎のひとつが解けた。人はこの世に生を受け、やがて命が尽き、朽ち果てていく。が、その死はあくまで知識でしかなかった。20歳そこそこの私は死を現実のものとは捉えようとはしなかった。

その私は紛れもなく、夢の中でまどろんでいる存在そのものだった。また、私は都合の悪いことを意識の外に追いやり、自分を正当化することで、自ら極めつけの善人と考えるような男だった。そうして私は欺瞞に満ちた20余年を生きてきたのだった。

「時間の本質とは何だ」と篠田が私にかけた謎の答えが、やっと分かった気がした。私が篠田の遺書と自分の人生を振り返って思い当たった答えは「悔恨」だった。
つづく


丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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