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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
                            9
 
 その夜、私達を待っていたのは至福の時間だった。
 
 水道橋駅近くの馴染みの居酒屋は歓喜の声で溢れかえっていた。
 「おう、飲んでいるか!」。随分離れたテーブル席から、歌人の福島泰樹さんが、当時、あまり付き合いのなかった私に声をかけてきた。「この試合にこうして立ち会えた僥倖を、何に感謝すればいいのか。神か!」。
 すっかり酩酊した佐瀬さんが、声も高らかに詠じている。やがて原稿を書き上げた芦沢さんが合流すると、また乾杯が始まった。こうして、その夜、繰り広げられた酒宴が佳境に入ったころだった。私はふと背中に強い視線を感じて振り向いた。視線は10mほど後ろの席からのものだった。視線の主は祥子だった。

 その二人用の席に一人で座っていたのは祥子だけだった。私は再び顔を戻すと、また仲間内の話の交流に加わった。やがて、店を変えて飲み直す話がまとまり、私達は立ち上がった。思いきって振り返った私の目に映ったのは、既に空になった二人用の席だった。「これでいいんだ」。自分にそう語りかけながら、外に出て、潰れるほど飲み歩いた私から祥子という存在は完全に消えていた。
 
 そして「高橋ナオトが蘇った」という幸福感は、翌日、祥子の手紙を開くまで続いていた。


丸山幸一の
『祥子(さちこ)
~ある女拳闘家の記録~』

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丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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