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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説

 先日、あるマスコミ主催の酒席に出席した際、隣に座った詩人がこう切り出した。「この前、新聞社から“何故、人は人を殺してはいけないのか。意見を伺いたい”という電話があってね。僕はその新聞社に腹が立った。そんなことを聞く神経が分からなかった」

 私が返答に窮していると「ふざけていますね。人間に殺す権利があれば、自分も殺されても致し方ないことになる。全くバカな質問だ!」と憤りを露わにした右隣りの男が引き取ったので、私は黙っていた。詩人はその男に同調するように言った。「人には、人を殺す権利なんてあるはずがないのだ」

 それはある若者が「一度、人を殺してみたかった」という理由で殺人を犯した事件があった直後で「コンクリート殺人事件」等の事件にテレビを通じて意見を述べていた詩人に、新聞社は質問をしてきたのだろう。

 しかし正義の名において、或いは、思想の名の元に大量の殺人を犯してきたのが人間の歴史である。それは旧ソ連等の共産主義国家のみならず、キリスト教のような宗教でも同様だった。

 何故、人間には人間を殺す権利がないのか。そのことを論じる前に、我々が自問しなければならない問題がある。何故、人間は人間を殺すのか。何故、カインはアベルを殺したのか。・・殺人とは、自分という存在を、つまり自分を守るための切羽詰まった、極めて人間的な行為ではないのか。無論、法的に正当化されるはずはない。けれども、それは何故、人は人を殺すのか、という問題の答えにはなっていない。

 私は「そんなことを聞いてくる新聞社に腹が立つ」と言下に吐き捨てた詩人に大いに不満を抱いた。

 私がそのことにこだわったのは、まだ知り合ったばかりの郁子の言葉を思い出したからだった。「マルクスは水が沸騰点に達すれば蒸気になるように、量的変化が質の変化を促すのは歴史的必然だと論じた。同じように資本主義社会が社会主義を経て、共産主義社会になるのは、歴史的必然なのよ。でも水が沸騰するまでは待てない。その間隙を埋めるのが革命なんだわ」。郁子は覚えたての理論をぼそぼそと語り続けた。「で、反革命分子を抹殺するのは、革命のための必要悪なのよ」

 郁子は通りかかった草叢の中で声を枯らして泣いている捨て犬を見ただけで、涙を流すような女だった。そんな郁子が吹き込まれたばかりの「革命理論」を盾に「革命のためには、反革命分子を処刑するのはやむを得ないことなの」とためらいがちに主張していた。そんな郁子がいじらしかった。

 やがて、私達が共同生活に入ると「革命家」の郁子は跡形もなく消えた。そして二人はその生活に溺れた。篠田が私達のアパートを訪ねてくるまでは・・。

 68年10月21日に起きた「新宿騒乱事件」から1週間経った28日。大学構内で出会った郁子の頬が明らかにやつれていた。その背後から近づいてきた篠田が笑いながら、私に顔を向けると、郁子がその笑顔に応じるように、言った。

「今、あの日のことを話そうとしていたの」

 あの日、デモに参加し、機動隊に追われ、必死で逃げていく郁子を、目ざとく見つけ、安全な場所に導いたのが篠田だった。彼が郁子の言葉を引き継いで話し始めた。

「僕らは三 光町 まで走ると、いつか君を連れて行ったこともある『ボタンヌ』に逃げ込んだ。そこには僕らのほかにも逃げ延びた何人かの男と女がいた。酒場の女将は“篠田さんまで革命家になったの”と笑いながら僕らをもてなしてくれた。その夜、したたかに酔いしれながら、新宿の街が静かになるのを待った」

「朝になった時、言ったの。あたしはもう、あのアパートには帰らない、って」。

 息もぴたりと合う二人に私が覚えたのは嫉妬を遥かに超えた絶望だった。

「それでアナーキストに転向した男と暮らすことにしたのか」。私の様子を見やりながら篠田が言った。

「僕は既存の物を壊したい、とは言ったがアナーキストになったわけではない。僕が選択したのは壊れていく自分を見つめることだった。そんな僕を一緒に、見守りたいと言ってくれたのが郁子さんだった」

 篠田が言う「壊れていく自分」とは何なのか。左目の光を失い(それは恐らく網膜の剥離によるものだった)、ボクサーとしての自分を表現出来なくなったことを示唆したのか。しかし、その時の私は郁子を失った事実に打ちのめされていただけだったのだ。こうして、私は篠田とも決別した。

 篠田の死が報じられたのは、その2年後のことだった。1970年11月の末、篠田は私が通っていた大学近くの神社に備え付けられた能舞台の上で死んでいた。死因は警察の発表によれば、多量の睡眠薬による自殺だった。

 そして、私の元に篠田からの遺書が届いたのは、私が新聞の片隅に載っていた、篠田の死亡記事を見つけた翌日だった。  
つづく


丸山幸一の
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