「彼は国の太陽です」
熱戦の余韻が漂う控え室前の通路。元横浜光ジムトレーナーで、現在は母国・韓国でボクシングジムを主宰している金昌龍さんが顔なじみの記者を見つけて、こう話していた。
その想いは、試合中のリングサイドにも明らかだった。
4月21日、東京・後楽園ホール。日韓親善対抗戦のコミッション席に韓国拳闘委員会(KBC)のトップ2人が座った。
ひとりは洪秀煥会長。1970年代に韓国ボクシング史上2人目の世界王者となり、韓国初の世界2階級制覇も果たした。
もうひとりは柳明佑事務局長。1985年から1991年にかけ、WBA世界ライトフライ級王座を17度続けて防衛、現在も破られていない世界ライトフライ級の最多連続防衛記録をつくった。
いずれも韓国だけに収まらず、東洋圏を代表する名世界王者が大きな手振りをまじえて大声をあげ、立ち上がり、拍手を送った。コミッション席からの、なりふりかまわない懸命の鼓舞は、復活への祈りでもあった。
長らく韓国ボクシング界の低迷が続いている。世界王者の不在期間は間もなく6年間を数え、東洋太平洋王者はわずかに1人。それが、この日のメインに登場した東洋太平洋スーパーライト級王者、“韓国の太陽”キム・ミヌクである。
選手層の薄さは前座試合の顔ぶれにもうかがえた。対抗戦の4試合のうち、韓国ランカーは3人出場していたが、肩書きと力量との釣り合いを考えれば、首を傾げざるをえなかった。ほかの多くの競技と同じようにボクシングにおいても韓国はかつて日本の壁であり、ライバルと呼ぶにふさわしい存在であったのだが…。
別の寂しさもあった。ついにコリアンファイターは絶滅したのか、という感慨だ。屈強な身体。不屈の精神力。武骨で勇猛なファイト。巧いというより強い、それが典型的な韓国のボクサーだった。
では、昨今はどうか。色白で細身、総じてインファイトよりアウトボクシングを志向する傾向が強く、外見にとどまらない線の細さを感じさせる。変われば、変わるものだと、あらためて思う。
アマチュアで70戦とも80戦とも言うキャリアを持ち、国際大会での優勝経験もあるキムは、強さも感じさせたが戦いぶりはスマートだった。
日本代表の挑戦者は、高校アマチュアボクシングの名門・花咲徳栄出身の勇猛なサウスポー、岩渕真也(草加有沢)。その21勝中17KOの強打を王者はしばしば被弾するが、巧みに頭の位置を変え、足を使って波状攻撃を阻み、角度に変化をつけた右を岩渕の出端、あるいは打ち終わりに的確に決めて主導権を渡さなかった。
4回と8回終了時の公開採点を、ともにキムのポイントリードで迎えた10回以降がこの試合のハイライトだった。
10回、岩渕の猛攻にキムが後退。逆転KOの予感に後楽園ホールのボルテージは最高潮に達した。11回、岩渕の攻勢に対し、キムが果敢に打ち返して挽回する。最終12回は互いに力を余さず使い切るかのような打ち合い。図ったかのように2勝2敗で迎えた対抗戦の決着戦に、1340人の観衆はボクシングそのものと国際試合の面白さを堪能した。
試合後の控え室、貴重なベルトを判定で守ったキムに「ポイントで勝っていたのに打ち合ったのはなぜ?」と記者から質問が飛ぶ。韓国側スタッフ・選手団に通訳として同行していた金昌龍さんが「敢えてポイントは聞かせていなかった」と補足するなか、優しげな笑みをたたえて、キムは言った。
「最後は、自分の本能で前に出ました。メンタルの準備はできていたし、精神的な部分は負けていなかったと思います」
そういえば、戦前、パンチは強いが、打たれ弱いともっぱらの評判だったキムが、最後までダウンを拒否した。仕事は、「ボクシング一筋」という26歳。復活を目指す韓国ボクシング界の“太陽”と呼ばれるのは、その本能ゆえだろう。