「ほら。今、右にいる人。こっちの人のほうが『美しい』と思う」
都内某所の小ぢんまりとしたカウンターバーで、僕の隣に腰かけた女性はこう言った。我々の正面には何台かの小さなモニターがしつらえられていて、その中でモノクロームのモハメド・アリが舞っていた。それは、今から十数年ほど前のことで、僕も彼女もまだ若くて、映像の中のアリは燦然と存在感を放っていた。そう、アリとは同時代に生きていない我々の心にも訴えかけてくる何かが、この偉大なボクサーには確かにあったのだ。彼女とはその店で数回、顔を合わせた程度だったが、ボクシングはおろか、スポーツにすら関心のない女性だった。このときが彼女とアリのほとんど初めての対面だったはずで、そんな女性に「美しい」と言わせてしまう力がアリにはあるのだと、僕は妙に納得してしまったことを覚えている(しかも、ドキュメンタリー映像などではなく試合の映像で、だ)。
8月某日、ドキュメンタリー映画『フェイシング・アリ(Facing Ali)』の試写会に出かけた。かつて、アリと拳を交えた10人の元ボクサーの証言と映像で、アリの半生が描かれている。あの“キンシャサの奇跡”でアリに世紀の逆転負けを喫したジョージ・フォアマン、3度にわたってアリと激闘を繰り広げた宿敵ジョー・フレイジャー、アリのアゴを砕いて勝利を収めたケン・ノートン、ロンドンはウェンブリースタジアムで若きアリ=カシアス・クレイをノックダウンしたサー・ヘンリー・クーパー、アリの元スパーリングパートナーでボクサーとしての最晩年のアリを叩きのめしたラリー・ホームズなど、その証言自体が貴重で傾聴に値するし、彼ら自身の人生も語られて非常に興味深かった。
この10人の証言は、年代によって大雑把に2つに分けられると感じられた。つまり、今まさにアリにならんとしているアリと対峙した者たちの証言と、すでにその時点でアリであったアリと対峙した者たちの証言として。特に、番狂わせを演じたことによって、再戦でアリに3度のヘビー級タイトル獲得の偉業を成させることになったレオン・スピンクスと、ホームズのコメントに、後者の色が明らかで面白かった。その色合いの変化にも、アリの半生が表れているようだった。
映画は、老いと病魔と闘う現在のアリへの、10人のメッセージで締め括られる。中でも、印象深かったのがフレイジャーだ。
「ただ悲しいね。なぜなら……。ただ悲しいんだ。彼は偉大な男だ。だから……。彼には我々と同じように幸せな余生を送ってほしい。彼には、それを得る権利がある」
目に涙を湛えて話すフレイジャーの姿を意外と感じる方も多いのではないだろうか。なにしろ、かつてアリから散々、罵倒され、侮蔑の言葉を投げつけられ、深く心を傷つけられたのがフレイジャーだった。「今でも、アリのことを許していない」。そう語る晩年のフレイジャーを紹介するドキュメンタリー番組が、数年前、日本でも放送されたことがあった。ただし、このフレイジャーの涙が、歳月を経て、アリとのそんな過去をもすべて洗い流したというような、きれいな涙だとは僕には到底、思えない。憎悪と愛情が複雑に絡み合った……だから、深くアリと関わった者だけが流す、そんな涙と感じられるのだ。そのフレイジャーは昨年、アリより先に逝ってしまった。
けれども、最もこちらに訴えかけてくるのは、何といってもアリの映像である。その姿、その目、その表情、その立ち居振る舞い。圧倒的な存在感には、何度見ても、心動かされるものがある。10人の証言も、アリ自身が放つ言葉や信念さえも、アリが発する光があればこそ、輝きを増すとでもいうような……。そういえば、今年の夏、世界中の人々に、アリを目撃する機会があった。ロンドンオリンピックの開会式に車椅子に座ったアリの姿があったのだ。僕もテレビで目撃した。今年の1月で70歳になったアリの表情は、サングラスでも隠しようがないほど、まったく動かなかった。だが、もしも、その姿に痛々しさしか感じられなかったとすれば、それはアリをその場に担ぎ出した人間が醜いからにほかならないだろう。(その表現の是非はともかくとして)フォアマンが『フェイシング・アリ』の中で、こう言ってアリを称えていた。
「モハメド・アリは、まさにヒーロー。人種の枠を超え、彼は世界のヒーローだ。ヒーローは腕や脚を失っても美しい。その功績ゆえに」
アリを知らない人も、知っている人も、あるいは、知っているつもりの人も。ぜひ一度、映画館でアリを感じてもらいたい。
< info>
『フェイシング・アリ』公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/facingali/about.php
2012年8月25日(土)より、渋谷アップリンク、銀座テアトルシネマほか、全国で順次公開。