Boxing Novelette ボクシング短編小説
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1970年11月25日。
その日は、三島由紀夫が、市谷の陸上自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた日である。三島が自ら組織した憂国団体「楯の会」の制服に身を纏い、彼を信奉する会員を引き連れ、同基地の東部方面総監の執務室を訪れたのは、その日の正午である。
その直前に、三島は集まって来た自衛隊員を前にして「君達は武士だろう」と呼びかけている。三島のかねてからの主張は「天皇の国・日本」の真の独立だった。米国追随から解き放たれた、自己決定が出来る国家の実現である。そのために必要とされるのが、自衛隊を国連平和維持軍の一翼を担う、派兵可能な軍隊にすることだった。そして自らの意志で入隊した男達を武士になぞらえたのだ。
が、三々五々、集まってきた自衛隊員の誰もが武士たろうとはしなかった。三島のそんな演説を聞こうともせず、野次ることに専念した。やがて三島はその野次の怒声の前から姿を消し、以前から親しかった東部方面総監の部屋に立てこもり、名刀・関の孫六を腹部に当てた。彼の腹が自らの手で切り裂かれた時、情を交わしていたといわれる男の介錯によって首が落とされた。こうして三島は絶命した。
三島の死は、日本中を、そして私を震撼させた。何故、三島は文学者として死ななかったのか。いや、むしろそれが文学者・三島由紀夫の、美を全うした死に方だったのか。無論、私に彼の死が分かるはずもない。しかし、その一日が明けてからも私の憂鬱は深まるばかりだった。
篠田亮の死を新聞紙上で知ったのは、三島の死の5日後である。神社の境内の能舞台を死に場所に選んだ篠田の死は、その死に方ゆえに幾らかの注目を集めた。中には「三島への殉職か?」と憶測する夕刊紙さえあった。
篠田からの遺書が私の元に届いたのは、彼が実際に死去した日の翌日だった。
篠田の遺書はこんな風に書かれていた。
「久しぶりだな。いや、君がこの手紙を受け取る時には僕は死んでいるはずだから、それは可笑しいか。それにしても三島由紀夫は無粋な男だ。何も僕が死のうとしていた日の直前に、あんな事件を起こすことはないだろう。誓って言うが、文豪の死と僕の死は何ら関係はない。大体11月25日は旧暦では吉田松陰が絶命した日だ(多分、気付いている者は少ないと思うがね)。その日に合わせて自栽した三島の韜晦癖には改めてうんざりする。
それより僕だ。僕は以前、君にこう言ったと思う。僕が望んでいるのは、日本の崩壊に手を貸すことより、自分の崩壊を見つめることなのだ、と。日米安保条約は、僕の予想通り、大した混乱もなく批准され自動延長という皮肉な結果を生んだだけだった。そんな日本に金輪際、革命なんて起きるものか。まあ、そんなことはどうでもいい。僕が言った自分の崩壊、それを説明するには、僕の15歳の夏の日にまで遡らなくてはならない。
自分で言うのもおこがましいが、その頃の僕は自分でも嫌になるほど心根の優しい少年だった。僕には友人も多かったが、僕が最も愛情を傾けたのは兄弟のように一緒に育った、雑種犬のゴローだった。僕はその日も、庭の片隅で11歳になるゴローと戯れていた。やがて暗雲が立ちこめてきた。その隙間から西日が微かに射し込んでいた。
この自然のコントラストを愉しんでいた僕が、ややあってその空間に垣間見たのは巨大な顔だった。笑みをたたえた眼差し。しかし、その口元は大きく歪んでいた。その口から声が発せられた。『篠田亮よ』と僕の名が呼ばれた。『自分の欲望に忠実であれ』。それだけ言うと、その巨大な顔は暗雲の中に包み込まれていった。その瞬間、僕は悟った。あれこそ僕が何年も前から夢の中で見た悪魔そのものだったことを・・」
篠田の遺書は400詰めの原稿用紙で12枚にも及んでいた。私はこの不可解な遺書を読むことを一度中断して、篠田が自殺した神社の最寄りの警察署を訪ねた。警察署の説明によれば、篠田の死は「事件性なし」とされ、すぐに自殺と判断された。既に昨日の深夜に篠田の家族が遺体に接しており、篠田の葬儀は12月3日に青森県H市の篠田の実家で執り行われる、とのことだった。私は、篠田から送られてきた遺書については警察には報告もせず、高田馬場駅まで赴き、H市までの往復切符を購入した。
H市までは特急でも8時間もかかる。翌日、汽車に乗った私は改めてその遺書を読み返した。
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つづく |
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