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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説

 篠田の死から5カ月が経ち、私が籍を置いていた大学は、文学部内のバリケード封鎖も解除され、新学期が始まっていた。私が郁子と学内でばったり出会ったのは、桜の花もすっかり散った4月の中旬だった。

「少し話さないか」と声を掛けた私に郁子は笑顔で応じた。

「篠田さんの葬儀には来なかったんだね」。私の問いかけには答えずに、郁子がつぶやくように言った。

「篠田さんは、自分はブラックホールだってよく言っていた。それは死滅した星が作った空間で、そこに飲み込まれた物は全て引き千切られてしまうけど、やがて粒子の放射を繰り返すうちに消滅してしまう運命にあるブラックホールなんだって・・」

そこまで言うと郁子は唐突に、

「知ってたんでしょう。篠田さんが罹った病気?」とややぞんざいに言葉を投げかけてきた。私は篠田の実兄から、篠田が罹ったのが、治療法のない筋萎縮症だったことを聞いて知った、と彼女に告げた。

「でも篠田さんの自殺の原因が、その病気にあったとは思えないんだ。ボクシングを辞めた理由ではあっても・・」

「私もそう思うよ」。郁子が地面を見やりながら、小声でうなずいた。

「じゃあ、彼は何故、自分をブラックホールになぞらえたんだろう」

「分かんない。分かんないよ」。驚いたことに、そう言うと郁子はいきなり声を立てて笑いだした。しかし、その声はやがて、激しい泣き声に変わっていった。

郁子との2年半振りの偶然の出会いの中で尋ねたかったことはたくさんあった。私の元を去っていった郁子は、その後、篠田とどんな生活を送り、いつ別れたのか。しかし、私は郁子の涙を見て思いとどまった。私は、篠田が私宛に書き記した「悪魔」のことを考えた。涙を拭き終えた郁子に篠田の遺書のことを語り、その悪魔の意味を尋ねた。

「あたし、あなたの苦しむ顔が見たい、って言ったことがあるでしょう。でも、あのアパートの何カ月間で、あなたが苦しまない人だということが分かったの。そのあなたに、分かるはずがない」。それが郁子の答えだった。

その通りだった。私なら、自分の愛犬が、トラックに轢かれて死んだとしても、仕方のないことだと、すぐに割り切ったはずだった。けれども篠田が限りない悲しみと共に感じたのは、恐らく、自分が悪魔にゴローの命を引き渡したような、心の痛みだったのだ。そんな繊細極まる感性を、私が理解できるはずがなかった。郁子の言う通り、私は自分を極めつけの善人と考えるような、苦しむことが出来ない男だった。



「君は大学に戻るの?」。私が言うと、彼女は「多分・・」と小さく答えた。その後に長い沈黙が訪れた。その間、私の胸を突き上げたのは、郁子とやりなおしたい、という痛切な気持ちだった。そして郁子を見つめた。郁子も私を見つめていた。だが、私は何も言葉にすることが出来なかった。

しばらくして立ち上がると、私は「じゃあ」と言った。「じゃあ」と郁子が同じ言葉を返した。焼け付くような後悔の気持ちを抱きながら、私は振り返らずに、その場を立ち去った。

それが郁子と共有した最後の時間だった。郁子は大学には戻らなかった。

それから20年近くが過ぎ、郁子の死を人伝に聞いた。

篠田が死に、郁子が死に、ボクサーとしての篠田に深い興味を抱いた石丸さんも、もうこの世にいない。・・そして私はといえば、今も相変わらず、自覚のない、まどろむような毎日を生きているのである。
おわり


丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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