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Boxing Novelette                     ボクシング短編小説
 

 68年10月21日。その夜、新宿の街の各所で火の手が上がった。
 その日は米軍のタンクローリー車が、ベトナムへ飛び立つ軍用機の燃料を横田基地から運ぶために新宿を通過する、という情報が流れていた。夕暮れと共に、新宿駅地下の西口広場に中核(革命的マルクス主義者学生同盟中核派)や革マル(同革マル派)らのセクトや、ベトナム反戦を訴える学生が集まりだし、その総数が3000人を超えた頃から彼らは一斉に地下から新宿の街中へとデモ隊を組んで繰り出していった。すると新宿通りと靖国通りの交通を遮断して待ち構えていた機動隊が、間髪を入れずにデモ隊を潰しにかかった。

 ヘルメットと角材で武装したデモ隊の隊列が次第に崩れ、機動隊の警棒で殴打された学生達の額から鮮血が噴出し、通りは瞬く間に血の海となった。警察サイドにとって誤算だったのは、この光景を遠巻きに見ていたはずの野次馬の多くが学生側に見方し、デモ隊の列に加わったことである。さらに機動隊とデモ隊を群集が取り囲み、いつもはネオンに彩られた華やかな街は、殺伐とした無頼の街へと化していった。

 やがて、新宿駅構内に侵入した活動家が山手線の車両に火を放った。それをきっかけに通りに止まっていた車にも火炎瓶が投げられ、剥がされた商店の看板が火勢をさらに強めていった。多数の怪我人を救助するための救急車がけたたましいサイレンを鳴らして現場に近づいてくる。しかし、群集が邪魔になってスムーズに怪我人を救出出来ない。

・・その日の新宿はまるで戦場だった。やがて機動隊が所持する催涙弾の入ったガス銃から、何百発も発射され、それを機に群集が散り始め、公務執行妨害罪と凶器準備集合罪による約1000人の逮捕者を出した「新宿騒乱事件」は翌日の早朝、終結したのである。

私はこの光景を雀荘のテレビで見ていた。常連達のほとんどが、「こうしちゃ、いられない」と夜が更ける前に、新宿へと出かけていったが、私は客がすくなくなって卓が囲めない南風荘で、ただ無気力に酒を飲んでいた。だから、その顛末はテレビと翌日の夕刊を見て知っただけである。

 深夜に帰宅したアパートの部屋は寒々としていた。そこには郁子の姿はなかった。卓袱台の上にも夕食は置かれていなかった。「来る時が来たか」。私は無力感と共に、そう思った。ただ、郁子のバッグも衣類もそのままなのだ。息を吸い込むと、郁子の香りを感じた。郁子はまた戻ってくる。そう感じた私の両の目から、涙が流れていた。

 私は郁子を愛していた。いや、それは愛着といった方が適切だったのかも知れない。しかし、郁子が私を愛していないことは分かっていた。二人の間の溝を作ったのは私自身だった。休学してまで、二人の生活を支えようとした郁子に対し、私は郁子が仕事を終えて帰宅する時間になっても、雀荘で卓を囲んでいた。

 そして二人の間に篠田という男がいた。「二人の生活を壊したのは篠田だ」。そう叫んでみた。しかし、生活を破壊したのは私の身勝手な妄想にほかならなかった。

「新宿騒乱事件」から1週間が経った10月28日。その日は国際反戦デーで、学内では各セクトが個々にジグザグデモを繰り返していた。その光景をぼんやり見ていた私は背に強い視線を感じた。咄嗟に振り返った私の眼に飛び込んできたのは郁子の姿だった。

「やあ」と声を出した私に、郁子が小さく「うん」と答えた。

「この前、デモに参加したの」。私の胸の中の疑問に応えるように郁子が言った。

 私と出会った頃の彼女は「中核の活動家」を自称していた。といっても大学に入って間もない彼女が重要ポストにあるはずもなく、だからこそ「反革命」そのものであるような私との時間を愉しむことが出来たのだ。やがて郁子は組織に背を向けるようになった。私との共同生活は、彼女にとって自分の身を守るための手段でもあった。もし、郁子が組織についての多くの情報を掴んでいれば、大袈裟ではなく、彼女の身が危険に晒される可能性もあったからだ。けれども、組織は何の行動も起こさなかった。つまり郁子は、中核の上層部にとって、取るに足りない存在だったのだ。

「あなたは、知らなかったでしょうけど、レストランは1週間以上前に辞めたの。あの21日の昼は”仲間“に会って・・。そのまま新宿へ行ったのよ」。彼女が続けた。「仲間が何人も官憲の手に渡った。それを知って、私の居場所は、もうあのアパートにないことをはっきり感じたのよ」

「それで?」。間の抜けた質問をした私に郁子が何の抑揚もない口調で付け加えた。「後で荷物を取りにいく」。

「これからどうするんだ」。そう尋ねた時、郁子の彼方から、ゆっくりこちらに近づいて来る男が目に留まった。篠田だった。
つづく


丸山幸一の
『悪魔に愛されたボクサー』
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