Boxing Stories ボクシング人
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story #3 |
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ある三十路のグリーンボーイの話 |
文・宮田有理子 |
ここ数年、新人王トーナメントの出場者を見ていてもわかりますが、三十路のグリーンボーイが目立つようになりました。
5年前にプロテスト受験の年齢制限が30歳未満から33歳未満に引き上げられたこともひとつの理由でしょうが、30の歳を過ぎて「オレも…」と、リングに挑むのには、きっとどうしても消せない願い、遠回りした分だけより強くなってしまった思いがあるのだろうと、想像します。
ワタナベジムでその時を待つ佐々虎太郎(ワタナベ)も、そんな中の一人です。
本名笹木康介、34歳。130sあった体重を、ちょうど半分の65sに落として、11月3日、初めてのリングに上がります。そこに至るまでの、長い長いみちのりを、聞きました。
「今が人生で一番、幸せです」
鼻を折れば自分で割り箸を突っ込んで矯正し、あばらを痛めても自然に癒えるのを待つ。月曜から金曜までは「居酒屋くらんど」で働きながら休憩時間にジムへ通い、土日も朝から晩までアルバイト。懸命に働いて稼いでも、元妻一家と自分の生活費で、ギリギリだ。それでも、たくさんの人の温かさを感じながらボクシングができる、そんな毎日に、この上ない幸せを感じているという。
2012年11月3日に、佐々虎太郎のリングネームで、憧れ続けたプロのリングに立つ。プロボクサーになるんだ、と、生まれ故郷・福島から初めて上京したのは、19歳の時だった。それから15年。ここににたどり着くまでに、途方もなく長い時間が過ごした。何度も、往きつ戻りつした。
「ケンカは負けたことなかったですけれど、もっとケンカに強くなりたくて。中学生の時は柔道をやっていたのですが、刺激がなくて…相手の顔を殴るのが一番、興奮しました。だから、ボクシングだと」
朴訥として、人の好さばかりが滲み出てくる口調で、笹木は意外な少年時代を告白する。満たされぬ心を、少年はそうやってごまかすしかなかったのだ。
「僕が幼稚園のころに両親が離婚して、母親が兄と妹を連れて家を出て行って、僕だけが父親の元に残されました。父はお酒を飲んで帰ってきては僕を殴りました。家では父が怖くていつも隠れていて、そんな鬱憤を外で吐き出す。だからいっぱい悪さはしました。大人の力で殴られ慣れてたものだから、同世代に殴られたって、ぜんぜん、痛くもなんともないんです」
殴るなら、強くなるなら、ボクシングだ。そう考え、のちの日本・東洋王者、細野悟の出身校である磐城第二高校に進み、当然ボクシング部に入部した。が、半年ほどしたころ、スパーリングで鼻を折り、その後は走り込みばかりの練習に飽き飽きして、退部。学校もやめてしまった。
それから何年も「フラフラして」暮らしていた彼に転機が訪れたのは、1997年11月、19歳の時だった。辰吉丈一郎がシリモンコン・ナコントンパークビューを倒し、WBCバンタム級タイトルに返り咲くあの衝撃的な場面をテレビの画面で見て、感情のままに福島を飛び出してしまうのである。
あてもなく、金も持たずに東京へ行き、受け入れてくれるジムを探して歩いた。有難いことに寮も仕事も斡旋してくれたジムもあったが、ほとんど指導は受けられず、足が遠のいた。つてを頼って沖縄にも行った。1週間だけのつもりが好きな子ができて8ヵ月も逗留したが、「オレ、東京でプロボクサーになる」と宣言し、再び上京。沖ジムに入門する。現在働く「くらんど」のオーナー、元日本ライト級1位の田中光吉と出会ったのは、この時だ。ここでは初めてスパーリングまでたどり着いたが、そこで「ボコボコにされて、びびっちゃって…」、また、足が遠のいた。
故郷に帰り、17歳のころに出会った女性と再会。23歳で結婚。娘も二人できた。ひたすら嫁と子供のため、生活のために働く日々だった。「でも、ボクシングのことを忘れたことはなくて。プロテストの年齢制限が30歳から、33歳の誕生日までは大丈夫、ってなったのは知っていましたが、年を取るたびに、ああ、もう時間がない、って気持ちがつのってですね……」
離婚。31歳と3カ月。身ひとつで3度目の上京。田中光吉を頼った。「やりたいならやればいいじゃないか」という田中の下で、働けることにもなった。が、手元にあったのは20万円の現金だけ。部屋を借りる敷礼金は田中に前借した。「ふとんも買えなかったんです、最初は」。
そして今度こそプロボクサーになるために、ワタナベジムの門を叩いた。
しかし実は大きな問題があった。その時、笹木の体重は130s。120sあった体重を約半分に落としてプロボクサーとなり、日本王座挑戦まで果たしたボクサー生田真敬(ワタナベ)のことを雑誌で読んで知っていたから、自分も大丈夫だろうと思っていたのだが……トレーナーに鼻で笑われ、「やせないとボクサーにはなれませんよ」と一蹴されてしまうのだ。
だがこの時ばかりはもう後戻りするわけにはいかない。
フィットネスジムに通い、半年で30sを落とし、99sになって再びジムの門を叩いた。31歳の7月7日。晴れて入門。32歳の誕生日の直前だった。そして1年後の7月5日、33歳の誕生日の直前、すべりこみでプロテストを受けるのである。77sまで落として臨んだそのリング。結果は不合格だった。ここで夢はついえたはずだった。ところが……。
33歳の誕生日の二日前。失意の笹木が「くらんど」で働いていると、渡辺均会長がやってきた。「会長は、“なんでそんなにボクシング、一生懸命なの? 無理しちゃダメだよ”って言いながら、“でも誕生日までに受験申請を出したら、プロテストもう一回受けられるよ”って教えてくれたんですよ
。しかも郵送だと間に合わないからって、会長がコミッションまで持って行ってくれたんです」
リミットだと思っていた33歳の誕生日が過ぎ、笹木は9月28日に決まったプロテスト、本当のラストチャンスに向けて、一心不乱だった。そして、70sで受けたそのテスト、ついに合格。「終わった瞬間、ダメだったと思ったけれど、周りは大丈夫だよと言ってくれて」。
実はプロになれただけでやや満足していた笹木は、油断するとすぐに太る。一時は90sまで体重が戻った。が、高橋智明チーフトレーナーが“ニンジン”をぶらさげる。20日で76sまで落としたら試合を決めてやる、と。1日オニギリ2個だけで練習に励み、課題をクリア。高橋トレーナーは、苦笑す
る。「人間ってすごいな、って、笹木を見てると思います」。かくして、遠回りしすぎた男がついに、デビューする日が決まったのだった。
引き締まった脚が踏む軽やかなフットワークからは、130sだった時の姿は想像できない。「意外なくらい、ちゃんとボクシング、できますよ」と高橋トレーナーは言った。平日は毎日、「くらんど」の昼休みである午後1時半から4時までジムにいて稽古の相手を探すのだが、時折、世界チャンピオン内山高志が手合せをしてくれるのだそうだ。「内山さんにとっては、たぶん1割も力を出していないと思うんですけれど、ボディは鍛えてもらいました。内山さんは、急所だけを完璧な角度で打つので、打たれても骨折しないんですよね。ものすごい効きますけれど」
笹木には、分け隔てなく礼を尽くす内山高志の人間性がまぶしく、その姿勢を尊敬してやまない。「やればできる。努力は裏切らないんだ、って、ことも。内山さんの本に書いてありましたけれど、僕も同じ気持ちで練習しています」。
グリーンボーイのほとんどは、相手の情報などほとんどないままリングに上がる。向かい合ってみたらサウスポーだった、などという話も聞く。笹木も、相手は伴流ジム所属の右構え、ということしか知らない。が、それで十分だと言った。
「試合には、70人くらい来てくれます。元嫁も、応援用に配るうちわを作ってくれてて、むこうの両親も来るんですよ。3年前は、家に火つけるぞ、って言われて福島出てきたんですけれど……。僕ほんとにボクシングが好きなんです。リングに上がったらきっと、もっと好きになってしまうと思います。毎日練習して、ほんの少し、おにぎりを食べる幸せ。たまに飲む、ダイエットコーラの味。今、人生で一番幸せです。勝つことだけを考えるようにしてます。自分の未来を掴み取るための、一勝だと思って」
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