Boxing Stories ボクシング人
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story #1 |
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石田順裕
アメリカン・ドリームをつかみに |
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文・宮田有理子 |
石田順裕がラスベガスで大番狂わせを演じてから、4ヵ月が過ぎた。
が、痛快なKO劇の映像は、何度見てもいい。そして何度見ても、あの時あの眠らぬ街へ飛ばなかったことが、心底悔しくなる。
スーパーウェルター級で東洋太平洋、日本、そしてWBA世界暫定王座を制した重量級ボクサーのアメリカ・デビュー戦だった4月9日のジェームズ・カークランド戦。
その半年前にメキシコで、“カネロ兄”リゴベルド・アルバレスに釈然としない判定でWBA暫定王座を譲った後の再起戦だったが、ベガスにおいてNobuhiro Ishidaはまったくのアンダードッグだった。前WBO北米王者で26戦全勝(24KO)のホープと、前暫定世界チャンピオンとはいえ戦績は30戦22勝(7KO)6敗2分と凡庸と言わざるを得ない新参者の賭け率は、17.5対1。つまり、石田に100ドル賭ければ、1750ドルになって戻ってくるということだ。KO勝ち、まして初回KO勝ちに賭けたりしていたら、いったい何倍に跳ね上がっていたことか…。実際にこの超大穴を買っていたら−−あのディフェンスマスターが果敢にショートパンチを狙い、突進してくる短駆のサウスポーを3度倒した112秒に大興奮し、MGMグランド・ガーデンの大歓声の振動を体感できた上に、旅費をすっかり取り返せたことになる。
しかし、もし自分が現地にいたとして、果たしてほんとうにスポーツブックのカウンターで「IshidaのKO勝ちに!」と、躊躇なく100ドル札を差し出すことができただろうか…。
私の記憶には数年前、アルマンド・サンタクルスとのスパーで、ボディを叩かれてコーナーでしゃがみこんだ石田の姿が焼き付いていたし、初の海外遠征だった前戦でチャンピオンとして戦った時の「攻め」に物足りなさを感じていたから、どうしても快勝はイメージできなかったのだ。
「今回は、ほんまに勝たなあかん試合やったんです。自分はアメリカで戦うって決めて、いろんな人を巻き込んだから……トレーナーもルディもノリさんも。たくさんの人が日本から応援してくれていて、LAでも応援してくれている。ルディには“負けたら日本に返さない”って言われたんですよ」
WBAタイトルを失った後、再起を決めた石田は主戦場を移す決意で、すでに馴染みになったキャンプ地ロサンゼルスに渡った。“トレーナー”とは4年前からコンビを組んでいるロサンゼルス在住トレーナー岡辺大介氏、“ルディ”は日本でもおなじみのルディ・エルナンデス氏、岡辺氏の10年来の師匠でもある。そして“ノリさん”とは、戦後まもなく広島からアメリカ西海岸に渡り、半世紀、日本からやってくるボクサーの世話人をしてきたマネージャーのノリ隆谷氏。
さまざまな障壁をクリアしながら、このチームはカークランド戦に到達する。
試合が近くなったころ、岡辺氏から電話があった。「勝てるよ」。石田の弱気をよく知るトレーナーが言うのだから、準備の間に深めた根拠ある自信なのだとは思った。
もともとマニアの岡辺氏は、ドン・カリーやヘナロ・エルナンデスといった“パンチをもらわない選手”がアイドルで、石田のスパーリングを初めて見た時からそのボクシングセンスに惚れ込んだ。「石田君には、パンチをもらわない神様がついてるよね」というこのトレーナーの言葉を聞いて、一つ年上の石田は先生に褒められた子供のような笑顔をみせた。なぜディフェンスに拘るのかを尋ねると、二人のこたえは同じだ。「だって、痛いのイヤだから」。
しかし、アウェーのリングでは、攻めてどんどんアピールしなければ、ポイントにはならない。メキシコの二の舞にならぬよう、岡辺トレーナーは石田に攻撃の重要性を説いた。上背のある技巧派が短駆の強打者と対戦するのだから、足を使ってさばけ、というのが常套だろうが、ここでは石田にリングの真ん中で戦うよう指示した。ロープに詰まることがないようリング中央に陣取り、パンチをまとめるのである。
「外国人はリングに上がった時点でポイント負けてる。マイナスからのスタートだから。1発当てただけじゃダメ。4発5発まとめて当ててやっとポイントになる。大丈夫だよ、石田君の逆ワンツーが、絶対に当たる。目つぶってても、当たるから」。トレーナーの、力強く、迷いのないそれらの言葉が、35歳で初めてボクシング大国アメリカのリングに上がるボクサーに、新境地を開かせることになるのである。
カメラに映し出された前暫定王者は、決然とした表情で青コーナーに立ち、赤コーナーを見つめていた。
ゴングが鳴ると、好調が続くカークランドが自信満々に出てきたが、石田は逃げない。そしてほどなく、懐深く飛び込もうとする相手に右をカウンター。ホープは何が起きたか理解せぬままキャンバスに落下した。長身の日本人がガッツポーズをしてニュートラルへ行く。再開後、練習したという逆ワンツー、さらにフォローの右でダウンを追加。そしてワンツーでとどめのダウンを奪うのである。レフェリーは、ストップに納得がいかない様子で「まだ出来るよ」と訴えるカークランドに首を振って、コーナーへ戻るよう促した。
わずか112秒の試合、そしてその後の喧騒の間、実況のアナウンサーも大興奮だった。少ない石田のデータを駆使して、大アップセットを報道していた。
「試合のあと、リングから降りたら人が押し寄せてきてたいへんやったんですよ。記者の数もすごくて。まるで満員電車みたいでした(笑)」
ラスベガスでこんなふうに大歓声に包まれることを、おそらくボクサーなら誰でも夢見るのだろう。いつもはテレビの向こうにあるこの煌びやかなボクシングビジネスの中心で、注目を浴びたら、どれだけ気持ちいいだろうか。
石田にとっても、ひそかに想ってきた夢の場所だった。
先日偶然アルバムを開いたら、初めてラスベガスに出張した時のものを発見し、その中の一枚に石田が映っていた。2003年3月1日のWBA世界ヘビー級タイトルマッチ、ロイ・ジョーンズ・ジュニア対ジョン・ルイス戦の前日、メインストリートから外れた庶民派カジノで行われたローカルファイトを観戦に行った時のものである。LAを拠点としていた丸山礼子とベガスの人気者メリンダ・クーパーの再戦。初戦で僅差判定負けを喫した丸山は、この日スタートから猛攻をしかけた。が、地元の人気・実力を兼ね備えたクーパーの的確なパンチを断続的に被弾し、レフェリー・ストップ。しかしその瞬間、地元ヒロインの勝利にも関わらずブーイングが起きた。ストップは早い、というのだろう。勇敢に戦い、無念の敗北を喫した日本人女子ボクサーは、リング上から控え室まで拍手で見送られた。石田はそんな様子を客席で見ていた。
当時の彼は、不振の中にいた。デビューから10ヵ月、2001年3月に6戦目で東洋太平洋スーパーウェルター級タイトルを獲得したところまでは順風満帆だった。が、2ヵ月後、敵地・四国で暫定王者・竹地盛治との統一戦にまさかの判定負けを喫してから、歯車が狂った。日本王座挑戦も、OPBF王座返り咲きにも失敗に終わる。
「そういう時期に、刺激を受けたかった、いうか、なんとかそんな展開を変えたいと思って、初めてアメリカに来たんですよね。トレーニングのためにロサンゼルスに来て、初めてラスベガスでボクシング観戦。客席からリングを見ながら、“自分もここで試合したいなぁ”って思いました」
誰もが実現できる夢ではない。不振を抜け出し、世界王座を獲って奪われて、8年越しで、その憧れの地に立った。しかも、会場はMGMグランド。激闘派マイケル・カツディスがメイン、セミではあのエリック・モラレスがマルコス・マイダナと対戦する、ゴールデンボーイプロモーション主催興行の前座である。
「ミーハーなんでね…僕(笑)ほとんどきょろきょろきょろきょろしてましたね。うわぁ、誰がおる、って。でも大介は普通なんですよ。MGMでも、もう何度も試合についてるし、大介が横にいてくれてよかったですよ。“相手だけ見て”って言われて、僕は集中することができたんです。“勝つぞ”、っていう気持ちにね。もう大丈夫ですよ、ポール・ウイリアムスでもセルヒオ・マルティネスがきても」
あれから、Nobuhiro Ishidaの名前は間違いなく、暫定タイトルを保持していたころよりもずっと頻繁にメディアに登場するようになった。
日本が未曾有の大震災に見舞われてから1ヵ月足らず。日本人の頑張りに世界中が優しい視線を送っていた時勢もあり、絶対的不利の予想を覆したベガス新参の男にはJapan’s Rising Sun,やJapanese Super-Heroといった賛辞がついた。
そして、WBCミドル級名誉チャンピオンのマルティネスや元WBOウェルター級王者ウィリアムス、また最近はWBCミドル級王者になったばかりのフリオ・セサール・チャベスJr.と、このあたりの覇権を争うツワモノ(かその陣営)たちが、対戦相手として現在WBAスーパー・ウェルター級2位、WBCミドル級13位にランクされるIshidaを名指しするのだ。提示されるファイトマネーの額は、カークランド戦を境にゼロが一つ多くなったという。
もちろんあの一勝で、ラスベガスにおいては「新人」である日本人が、セレブリティになれたわけではない。
7月1日からトレーニングの拠点であるロサンゼルスに渡ったが、契約が残るメキシコの新勢力・カネロプロモーションからはビッグマッチどころかローカルファイト決定の知らせも届かず、妻に二人の子供を任せての長逗留に複雑な思いもかかえながらジムでスパーリングを重ねる日々を過ごしている。いまのところ8月27日にメキシコで戦える、かもしれないが、実際ゴングが鳴るまではいつ、キャンセルが無情に告げられるか知れない。一方のカークランドが早々と地元テキサスで再起し、7月23日のアミア・カーン対ザブ・ジュダー戦の前座でも勝利を収めているのだから、有力なプロモーションに属しない外国人にはやはり、大国アメリカは厳しいと言わざるを得ない。
が、どんなに小さな可能性であっても、たくさんの国からたくさんの無名・有名のボクサーがアメリカのリングを目指すのには、きっとそこにしか落ちていない夢があるからだと思う。当たれば、大きい。どうせギャンブルするのなら、当たれば大きい賭けをしたいではないか。勝負師ならば。
ノリさんは、そんな夢をみるボクサーたちを長い間、見守り続けてきた人だ。
ロサンゼルスはダウンタウンの北のはずれにあるトルトウキョウと呼ばれる街で、Anzen(安全) Hardwareという金物屋を営んでいる。台所道具から工具、園芸用品など日本の伝統的で便利な道具類が所せましと並んだ店で、日本人ではないお客に、道具の使い方から手入れの方法まで丁寧に英語で説明する優しい店主、が普段の顔だ。が、ボクシングの仕事人としては、知られたところでは、輪島功一から王座を奪ったショットガン・アルバラード、ルディとヘナロのエルナンデス兄弟、畑山隆則と引き分けたサウル・デュランといった選手のマネージャーであり、トレーニングや試合をしようと日本からやってくるボクサーの宿の手配やマッチメイクにも一肌ぬいできた。
60年代から70年代にかけては、日本人が世界の一級品をやっつける快感を何度も味わった。1964 年4月、オリンピック・オーデトリアムで海老原博幸がエフレン・“アラクラン”・トーレスを僅差2−1で破った時は、客が大暴れ(歴史的会場が15万ドルもの損害を被った)する中、命からがら避難した。68年に西城正三がオリンピック・オーデトリアムでの4連戦を経て同年9月にメモリアル・コロシアムでラウル・ロハスを大差判定で返り討ちにし、日本人初となる海外での世界王座奪取に成功した時もコーナーにいた。69年6月に花形進が“アラクラン”・トーレスに判定勝ちを収める番狂わせを起こし、その5年後にシゲ福山がのちの名王者ダニー・ロペスを棄権に追いやる金星を挙げ、オリンピックの常連客たちからドル札が舞った様子を、胸のすく思いで見ていたという。
「ボクシングはね、いいなあ、って思うんですよ、やっぱり。石田の試合で、コーナー下で日の丸を振っているところがテレビにも流れたみたいでね、日本の古い友人たちから“おまえまだボクシングやってたのか”って久しぶりに電話がかかってきたりしましたよ」
70歳を過ぎ、好々爺然の“Anzenのノリさん”のボクシング熱が、新しいヒーローの登場で再燃しつつある。
「もう一度、選手を育てたいな、ってね、思うんですよ」
120年以上も前、新天地を求めて移住してきた日本人が根を張り、戦争の激動期を乗り越えて夢を追いかけてきた場所であるリトルトウキョウは、裕福になった日系人は郊外へと散ったが、かつては北米最大の日本人街で、戦争前後は3万人もの人が暮らしたそうだ。今、巨大なバスや車が渇いたほこりを巻き上げる一番ストリートは、その社交の中心だったという。通りの北側に残る間口も高さもまちまちの素っ気ない造りのビルは長屋のように連なり、時代においてけぼりにされたようなたたずまいながら、長い歴史の証人として毅然とそこに立っている。ノリさんのお店はこの長屋の一角にあり、そのため日本から来るボクサーの多くも、この近辺の安宿に滞在してきた。
そんな中の一つ、ダイマルホテルが、石田の定宿だ。
私がしばらく働いていた日本人がほとんどこないラーメン店『ミスターラーメン』の二階にあって、一度入らせてもらったことがあるのだが、汚れてくもったガラスの扉をあけて細い階段を上がったところが“ロビー”。ちょっと愛想のよくない中国人のおばさんが管理人のこのホテルは、トイレ、バスは共同。数年前に改装をして壁などは少し明るくなっているが、天井は低めで光の入らない部屋もあって、ここに寝泊まりしながら日々トレーニングに通うボクサーの姿が浮かび上がってくる気がした。石田は奮発して窓に面した「インターネットの使える部屋」に暮らしていて、すっかり仲良しになった管理人のおばさんがゴハンを作ってくれることもあるという。が、実はもうちょっと、物騒な地域に近い3番ストリートにあるチャットウッドという宿に移ろうかとも考えているらしい。
「部屋代が安いし、メシも食い放題なんでね…(笑)」
石田を話を聞いていると、もっと器用に、うまく世の中を渡っていってもよさそうな気がするのである。
186pの長身で、見ての通りの“イケメン”で、元トップアマなのだ。が、自信満々に育ってきたのかと思えば、「めちゃめちゃ弱気でマイナス思考」。
幼少期から格闘技に親しみ大阪・興国高校時代に選抜大会優勝、近畿大学時代に国体準優勝を果たしている。にも拘わらず、卒業後は一度、グローブを吊るした。児童養護施設の指導員として資格取得を目指して勉強しながら働いていた時、高校でボクシングをしているという男子生徒に練習をつけることになったことがきっかけで、社会人選手権(1998年)に出場。勉強と仕事でほとんど練習できないままでリングに上がったが、結果は優勝。しかもかの名選手、今岡紀行を破ってのタイトルである。翌年の全日本選手権では3位。現東洋太平洋ミドル級王者・佐藤幸治の兄・賢治に敗れた。2ラウンドの終わりにボディブローを効かされて判定負け。
「自分に負けちゃうんですよ…プロの5敗もぜんぶ、自分に負けたと思てます。とにかくね、いつも自信がないんです。アマの頃はKO・RSCが多かったけど、プロになったら試合が長いから、スタミナが心配で。だから、パンチ効いたと思ってもラッシュできないんですよ、スタミナが心配やから(苦笑)。めちゃくちゃ怖がりでね…。あ、っでも、だからやたらガードするんですよ。それがよかったんかもしれませんよね、長持ちしてるわけやから」
2007年10月に世界ランクを狙ってハビエル・ママニと戦う前、知人に岡辺トレーナーを紹介され、初めて師事を仰ぐべく渡米した時、私の記憶が正しければ、キャンプ初日、石田はこの目当てのトレーナーと対面できなかった。乗ったことのない路線バスを乗り継いでジムへ行こうと試みたものの、複雑な時刻表を理解できず、なんとか目的地にたどりついた時には練習が終わっていた…そんな苦労話を聞いたように思う。
しかし、あちこち頭をぶつけたり壁を乗り越えたりしてきた時間や、逆境で得た人の縁が、弱気で怖がりを自認する男を強くしていったに違いない。
「6戦目で東洋を獲った時、けっこうちょろいかな、と思ってたんですよ。こんなに苦労するとはね……。とんでもなかったっですね(苦笑)。カークランド戦は、実は反省だらけで。ばたばたしすぎた。もうちょっと落ち着いていけたらよかった。でも…挫折を味わって、あきらめんと頑張れたんは、誇れるところです。いろんな人に助けてもらってここまできたから。自分一人やったら、とうにやめてたと思います。ノリさんが涙流して喜んでくれたの、ほんまに嬉しかったですね…。西城さんがロスで世界獲った時の話とかしてくれました」
ラスベガスでの大番狂わせは、一時の喜びや興奮はもたらしたが、実は石田の心を満たすものではないという。
「勝ちましたよ、番狂わせしましたよ、ラスベガスで。でも、まだ物足りない。アメリカンドリームは、これからです。まだまだ全然、満足してないんです。“暫定”っていう言葉、いらないし。いつも“暫定”って言われるの、すごい悔しいんですよ。……なんでですかね……小さい頃、なかなか父親に認めてもらえんかったことが原因なんですかね…人に認めてもらいたいっていう気持ちが強いんですよ」
その、満たされない気持ちや飢える心がある限り、前進できる。そして重ねた苦労の厚みとともに、アメリカで夢を追うための力になるのだろう。
8月18日に36歳になった石田順裕。彼のボクサー人生は、これからが佳境なのかもしれない。
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