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Zine-Column                                       コラム
 Zine-Column vol.3
『慢性拳闘症』書評


渋谷 淳
 
著書は自他ともに認める本格派ボクシングマニア、俳優の香川照之。2月に公開された映画「あしたのジョー」で丹下段平を演じた香川が撮影日誌風に記したエッセイとの触れ込みである。立ち寄った池袋の書店では「タレント本」の書棚に置かれていた。少し薄めのソフトカバー。軽く立ち読みして終わらせようと思ったら、次の一節にグッと興味をそそられた。

 ボクシング漫画の金字塔、あの「あしたのジョー」だけは決して認めたくなか
ったのである。
 ──言ってしまった。(本書より)

 そうだったのか。大の拳キチたるこの俳優は、ボクシングに熱中し始めた10代のころから「あしたのジョー」を否定的な視点でとらえていた。その理由とは、精神主義、根性主義が賞賛されていた日本ボクシングのありように疑問を感じていたからだという。
 欧米では「スイート・サイエンス」と言われるほど、ボクシングは理性的かつテクニカルなスポーツとして扱われている。振り返って日本はどうか。簡単に言うと野蛮性や残酷性が肯定されてはいないか。殴られても、殴られても、前進し、倒れても、倒れても、立ち上がる。香川の考えるボクシングは別のところにある。「あしたのジョー」こそは悪しき日本拳闘会の象徴であり、だからこそ認めることなどできないのだと(倒れて起き上がる闘志をたたえる前に、倒れないような、殴られないような技術を磨くべきだ)。
 このような事情があったにも関わらず、香川は映画への出演を決意する。当初は「仕方なく」という心境が、徐々に変化していく様子が描かれている。
 ボクシングに関する映画、しかもそれは一歩間違えばとんでもない駄作になる危険性をはらんだ「あしたのジョー」なのだ。30年以上もボクシングに取りつかれている自分が参加し、ボクシングという愛すべきスポーツに恥じない映画にしないでどうする。香川照之を抜きにして本物のボクシングファンが納得するようなファイトシーンを撮影できるというのか。湧きあがった使命感と矜持が次のような一節に現れている。

 ボクシングというもののリアリティを映画の中に介在させられなければ、それは私自身の人生が負けるということなのだ。私が費やしてきた三〇年の日々が徒労に帰するということなのだ。(同)

 香川はこの映画に人生をかけた。ボクシングの細部にまでこだわり、妥協を許さず、己の思う拳闘というものを役者たちに徹底して叩き込む姿には凄みを感じさせる。
 ジョーに扮するジャニーズの山下智久と、力石徹役の伊勢谷友介には、自ら編集したボクシング名場面集(たとえば辰吉VSリチャードソン)を見せ、厳しいトレーニングを課し、身長180pの伊勢谷には60sアンダーという過酷な減量を約束させた。
 試合風景の撮影では、監督があきれ返るくらい細かく注文を出した。それこそドヤ街で偶然出会ったジョーを手塩に掛けて育てる丹下段平ばりの熱血指導を展開した。減量をスタートさせる山下に吐いたセリフは完全に段平である。

「いいかジョー。明日から食事を一食抜けば(興行収入が)一億円上がると思えよ。一億だ。(中略)いいなジョー! 気違いだ、気違いになるんだ!」(同)

 だから本書はボクサー(という役)として成長していく山下や伊勢谷の物語にもなっている。2人の俳優がラストシーンに向かってトレーニングを積み重ねていく描写は、さながら本物のボクサーを追いかけたノンフィクションのようである。
 そしてボクシングに関わる人間として、香川の博識ぶりにあらためて脱帽せざるを得ない。伊勢谷の身体つきをサイゴンズ<Xキッパー・ケルプと表し、続いてサイゴンの由来(ベトナム人と米国人とハーフであること)を説明するくだりなど「ジャンキー」以外の何ものでもない。完敗である。
 本を読み進めていくと、映画の撮影を通して香川の「あしたのジョー」に対する考え方に変化が生じたことも分かる。本書を読み終えたいま、実写版「あしたのジョー」をもう一度じっくり楽しもうと思う。
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