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Boxing Stories                                  ボクシング人
story #2
故・芦澤清一さん 
「批判精神を忘れるな」
文・丸山幸一
 ボクシング・ジャーナリズムの大御所、芦澤清一さんが、7月30日、肺炎のため、73歳の生涯を閉じた。
 芦澤さんは私にとって、兄貴であり師匠でもあった。
 今は廃刊になった東京タイムズ紙の記者だった私が運動部に配属され、ボクシング担当になったのが1974年の暮れだった。当時、ボクシング記者席に居並ぶ面々は、自らボクシング雑誌を主宰していた平沢雪村、郡司信夫の両御大を筆頭に、「大学の虎」の異名をとり、プロ転向後、日本ライト級王者に上り詰めた後藤秀雄がスポニチ、日本ライト級王座の連続19度防衛の記録を持つ秋山政司はスポーツ報知、戦前のアメリカで「KOアーチスト」とうたわれた中村金雄は日経、元日本バンタム級王者で三島由紀夫の小説のモデルにもなった石橋広次は西日本新聞、今も健筆をふるっている矢尾板貞雄はサンスポ。こんな面々が君臨していたのである。「とんでもない場所に来てしまった…」。子供の頃からボクシングに親しみ、今挙げた人達の原稿を読んで育った私の、それが偽らざる思いだった。
 デイリースポーツ紙の芦澤さんはその時35歳。頭は角刈り。背筋をピンと伸ばし、苦虫を噛み潰したような表情で席に座っている。「恐ろしげな人だ」。それが私の印象だった。が、その心根の優しさを私はすぐ知ることになる。「今日、時間があったら君の歓迎会をしよう」。それが芦澤さんの第一声だった。
 以来、38年の長きにわたって芦澤さんと酒を交えることになるのだが、78年にデイリーが東京タイムズ社のビルに移ってきてからは、酒だけではなく、麻雀、ゴルフと、ことあるごとにご一緒させていただいた。
「芦澤さんは敏腕記者だったのですか?」。このサイトの発足メンバーであるフリーライターの渋谷淳さんから尋ねられたのは、奇しくも芦澤さんが亡くなる1週間ほど前だった。芦澤さんが定年退職したのは13年前。そのため、新聞記者同士の付き合いが余りなかった渋谷さんは、芦澤さんに関しては単なる「名物記者」という認識しかなかったのだ。私は答えて言った。「文章は簡潔にして常に的を外さず、しかも誰よりも早く書いた。その上、批判精神に富み、安易な世界戦などが組まれると、そのジムと真正面からやりあった人だった。スクープも数知れないほど、ものにした人だった」。
 まさに芦澤さんは、極めつけの敏腕記者だった。そして、よくジムの会長とぶつかった。。中でも協栄ジムの創始者・金平正紀さんとのバトルは、再三に及んだ。鬼塚勝也が微妙な判定の末、世界王座に就いた際「疑惑の判定」と弾じ「金平マジック」と表現したのも芦澤さんだった。「中傷、誹謗は論外だが、批判精神を忘れた記者は魂を失った書き屋でしかない」。それが芦澤さんの持論だった。
 私事になって恐縮だが、こんなことがあった。1988 年4月に三迫ジムの横沢健二がWBA世界ミニマム級王者レオ・ガメスに挑戦することが決定した直後のことである。私は共同通信社にこんな記事を書いた。
「横沢は10回戦でも秀でた実績のない選手。一方ガメスは17戦無敗12KOの強打者。ボクシングは何が起きるか分からないスポーツ、とは言われるが、横沢の勝機は万に一つもない。この世界戦は明らかなミスマッチである」。
 かねがね芦澤さんから「批判精神を忘れるな」と言われていた私が、多少、勇んだ気持ちで書いた原稿だった。この原稿が関西エリアのデイリー紙に掲載された。しかも5段組の大きな扱いだ。ただ、私の署名は削られていた。関西の知人から送られた紙面を読み、「この記事は芦澤さんが書いたに相違ない」と判断した三迫仁志会長は、怒りに震えながらデイリー東京本社の編集局に乗り込んできたのである。
 以下は芦澤さんが後日、私に語った話だ。
「それで俺が呼ばれたんだ。関東版には乗ってない記事だけど、関西のボクシング担当が横沢の原稿を書くはずがないから、編集局長も“芦澤だ”と思ったんだろうな。しかし、幾ら酔っ払いの俺でも自分の書いた記事くらい覚えている。で、俺でないとしたら、通信社の原稿以外にない。なら丸山だ」。そう考えた芦澤さんは、何と三迫会長に頭を下げたというのだ。
 自分が書いた記事に関しては間違っても謝罪などしない芦澤さんが、である。新聞社を辞め、ボクシングライターになって間もない頃の私を、芦澤さんはそうやって、守ろうとしてくれたのだ。しかも芦澤さんからその話を聞いたのは、横沢の世界戦から数年経った後のことだった。その際「本来なら、俺が書かなくてはならない原稿だった」と愉快そうに笑っていたのを思い出す。
「幾ら取材を重ねても、現役の選手とは絶対に飲食を共にしない」−それが芦澤さんの持論だった。芦澤さんがその禁を破ったのが坂本博之だった。彼が3度目の世界挑戦で、初回に2度ダウンを奪いながら負傷によるTKO負けを喫して間もない頃だった。
「坂本を励ましたいんだよ。坂本と親しいお前がセッティングしてくれないか」。芦澤さに言われて私はライターの加茂佳子さんにも声を掛け、上野の鮨屋で坂本を囲んだ。
 以来、坂本を囲む会は、彼が引退した後も続けられた。ボクシングスタイルのみならず、坂本という人間を愛したからこそ、芦澤さんは禁を破り、飲食を共にしたのである。そして坂本も芦澤さんを父親のように慕った。
「芦澤さん、あまり飲んじゃだめだよ。心配でしょうがないよ。いい、分かった!」。芦澤さんをこんな風に叱ったのは恐らく坂本だけだったことだろう。
 芦澤さんが亡くなった報を受けた私は、すぐ坂本に連絡を取った。通夜の夜、葬儀場に駆けつけた坂本は、全ての弔問客が席を立つまで居残り、芦澤さんの死を悼んだ。
 芦澤さんは奥さんを深く愛し続けた人だった。20年ほど前に奥さん一筋の芦澤さんをからかったことがある。
「俺も結婚する前は、色々あったよ。でも今のかあちゃんと一緒になる時、俺の両親から反対されたんだ。それでも俺のところに来てくれた。そんなかあちゃんを裏切れると思うか」。芦澤さんが真顔で答えたのを思い出す。

 思い出話はまだまだ山のようにあるが、この辺で筆を置こう。今は芦澤さんの冥福を、静かに祈りたい。

                 
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